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ラカン用語をめぐって ブログトップ

共約不可能性とサントーム/複数性の制作についた(改題、加筆6) [ラカン用語をめぐって]



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さて、「共約不可能性」というのは、ラカン用語ではなくて、『科学革命の構造』で有名になったトマス・クーンのパラダイム概念や、これを批判したポール・ファイヤアーベントなどの理論に登場する用語です。

英語 incommensurabilityの訳語です。

科学哲学の分野、および価値論の分野で使われる言葉というのが、辞書的な意味です。

つまり体系や概念、方法論などに違いを持つ異なるパラダイム同士の間では、概念間の対応付けがうまく出来ないというのです。

つまり、異なる伝統や文化、学問のあいだに、共通の物差しをあてがうことができないというのです。

科学哲学の用語を流用して、普通の意味でも使われているようです。つまり各個人が別々の価値を持っていて、しかも両者ともに共通する文化がない場合に、お互いに理解する事ができないという、人間不信の言葉という一般性を持つのです。つまり個人と個人のあいだにすら、今日の情報化社会では「共約不可能性」があるとも言えるのです。

私自身が体験してきた事で言えば、原始的な《群れ》社会を生きている人や、《村》社会を生きている人は、私のように情報化社会をなんとか生き抜こうとする努力というのは、理解してもらえないという体験でした。共約不可能性があるのです。

つまりコミュニケーションを成立させる共通言語が、日本人の無意識の深いところでの価値観としてはもはや無い状態という問題です。

たとえばアングロサクソンの社会ですと、多くの人が少なくとも聖書をある程度は読んでいるのと、シェークスピアを読んでいます。シェークスピアは17世紀の英語がそのまま舞台や映画で使われていて、ほぼ普通の人で理解ができるのです。

ところが日本の場合、共通する読書体験が、宗教書としてはなくなっています。昔なら歎異抄』や『法華経』などがあったのです。文学にしてもかつては夏目漱石や志賀直哉などの書籍として共通の教養があったのですが、今日ではなくなっている。代わりに漫画やアニメに置き換えられていると言えます。しかし宮崎駿のアニメにしても、私の世代ですと見ていない人が多くいます。日本文化が、ばらばらになってきているのです。ということは文化として機能しなくなってきている。

今日の情報化社会におけるコミュニケーションの範囲の問題として共約不可能性という視点は重要なのです。

つまり原始社会においては、《想像界》を介しての人間関係なので、前世や、来世までを含んだ人間関係の絆の成立が神話的に可能だったのです。そうした呪術的ファンタジーによる結びつきで、トータルな直接性に根ざしたコミュニケーションを結べたのです。現在でも星占いやチャネリングをする人と接すると、このタイプの人々が、そうした人間関係を生きている事が分かります。こういう人の中でも、もちろん貨幣は使われているのですが、美術作品の売買となると、美術市場に乗ろうとする意思がないようです。もともと自然採取の段階の社会である《群れ》には貨幣経済はなかったので、そういう事実が反映しているのです。

《群れ》より大きいのが《村》です。前近代の封建社会に於いては、「忠義」とか、義、勇、仁、礼、誠といった道徳律にもとずく《象徴界》を基盤としたコミュニケーションが成立していて、人間関係が意味を持っていたのです。が、そうしたものの延長として今日でも《村》を生きている人たちは、《世間体》の結合を持っています。それは同時に近代国家や、今日のグローバルな社会への忌避が目立ちます。

かつて日本は《村》社会だと言われてきていました。近代国家の体裁はとっていても、一皮むけば、前近代的な《村》社会で、近代個人主義は成立しないように思えた時代があったのです。

今日の情報化社会においては、従来あった人間関係は壊れて、個人個人はバラバラになりました。コンビニエンスストアーができて増えて行くのに合わせるかのように、従来の社会に会ったような絆が解体されて、バラバラな個人主義の人間が増えて行ったように思います。


伝統的な絆を失ったバラバラな個人が、しかも共約不可能性を前提にした人間関係を作って社会生活を営むとすると、《現実界》を前提にした人間関係だけが出現してくるのです。《現実界》だけで結びつく関係は、壊れやすいと、体験的には言えます。


刹那的で、永続性がむずかしい人間関係が不安定な活動をしながら、次第次第に壊れていくという経過をたどって行きます。どれほど努力しても、理解されないし、それどころか恨まれキチガイ扱いしか受けないのは、こうした《現実界》の人間関係は、意味構成をしないからです。人間関係の消費しか行われないのです。

情報化社会では、人間はお互いに何を考えているのか正確には分からない。そもそも自分自身が何を欲しているのかも良く分からない存在になっているのです。

味覚にしても、何をおいしいというのかは、人によって違います。辛いものになると、辛いものが好きな人と、嫌いな人では、大きな落差があります。
白いお米のご飯のおいしさにしても、どの米がおいしいのかは、人によって違うのです。いや、そもそも、どれがおいしいのかが見分けがつく人と、食べても比較すらができない人がいるのです。
こうしたことは情報化社会以前ですと、現在のような流通の発達による高度消費社会ではなかったので、今日のような多様性はないのです。現在の多様性の中で、多様な食材の出現の中で、味覚の共約不可能性が出現しているのです。

芸術の趣味判断になるとなおさら違いは大きくあります。分かりやすいのは、写真のように描いたものを感激するという、ミメーシス(真似)を芸術と受け取るものです。こんな絵画はとっくの昔に終わったはずですが、しかし根強くつづいて、日本人の原初的な欲望を満たすのです。

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ミメーシスと重なる部分もありますが、「だまし絵」と呼ばれるものに感激し引きつけられる人たちも多くいます。こういう絵の好きな人とミクシィで議論したことがありますが、こういう美術は美術史的には評価が低いのですが、そのことを教える事はできませんでした。

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上品な渋くて淡い色や、見慣れた画題にも、多くの人は引きつけられる人もいます。下の画像は、イタリアの画家のモランディですが、好きな人が多くいます。これも彦坂尚嘉的には、《第6次元 自然領域》のペンキ絵でしかありません。しかしそれでも人気はあるし、その原因もあるのです。ここではこれ以上ふれません。

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エロチックな夢想性を、芸術だと思い込む人々も多くいます。デルボーが好きだという男の人も多いのです。

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もっと一般的な例では、ヒロヤマガタなどの作品を、数多く集める人も、実際にいるのです。

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この様な比較的に分かりやすい例を含めて、芸術の趣味判断は多様であって、人によって好き嫌いは大きく分かれると言えます。

もっと現代美術/現代アートになると、この判断はむずかしくなって、議論になる問題なのです。

つまり情報化社会の芸術の趣味判断の根底には、「共約不可能性」があるのです。それは、かつてのモダンアートよりも、共約不可能性においてはもっと深刻になっているのです。

言い換えるとそれは情報化社会における人格の多様性であり、人格の根底にある個別性や特殊性が、芸術の趣味判断に違いを異常に微細に作っているのです。ですから人格を表す指標として、芸術の趣味の善し悪しが現れると言えます。

廃墟趣味の人もいます。

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崩壊趣味の人もいます。

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かわいい」趣味の人もいます。

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装飾が好きな人も多くいます。

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しかし「共約不可能性」という科学哲学の言葉を、このような芸術の趣味性の多様性の根底にあるものとして拡張して使って良いのかどうかは、問題があるかもしれません。批判があることは予想しつつ、彦坂尚嘉が使いたいと思うのは、ファイヤアーベントンの思想の根底にある過激なアナーキズムに共感するからです。


ファイヤアーベントは、ニュートン力学とか、アインシュタインの一般相対性理論とか、科学にはいろいろなパラダイムがあるけれども、その一つ一つの科学のパラダイムの正しさは、絶対的に証明できるものではないと言うのです。

それは単に宗教のようなもので、根底には、それを正しいと信じる核心のようなものがあるというのです。彦坂尚嘉の『アートの格付け』でいうと、《第8次元 信仰領域》の存在です。つまり信仰の自由の上に、さまざまなパラダイムや、趣味の感性が存在しているのです。

その確信は、他のパラダイムを信じている人から見ると、同意出来ないものがあるのです。《第8次元 信仰領域》だけの表現というのは、まさに信仰の自由だけで成立しているものなのです。


最近、親しくおつきあいいただいている建築家の高橋堅さんは、彦坂尚嘉の『アートの格付け』や芸術分析を、論証出来ないとして批判します。
批判してくださるのは良いのです。が、その具体例を一つ見てきましょう。たとえば高橋堅さんは若冲の絵画を良いと評価します。それに対して彦坂尚嘉は若冲の絵画は《第6次元 自然領域》のもので、レベルが低いと言います。ここには共約不可能性があります。

その場合、彦坂尚嘉は分厚い『若冲』(東京美術出版社 1974)という画集を買っています。定価で45000円の本です。これを1974年に買っているのです。この本は画集ですが、辻 惟雄氏の著作でもあります。私自身は辻 惟雄氏の『奇想の系譜』は、『美術手帖』連載当時(1960年代後半)に読んでいたので、そこで若冲に興味を持っていたのです。その後も機会があるたびに若冲を見て、結果として《第6次元 自然領域》のレベルの低い画家であるという結論になっているのです。

早くから若冲を見てきた側と、この画集も買わないで来た高橋堅さんとでは、意見が違うのは止む終えないと言えます。伝統的に言えば、絵画の専門家である彦坂尚嘉に敬意を払うのが当然なのですが、現在では敬意どころか、こういう玄人を否定する素人の時代になっているのです。ですから美術には素人の高橋堅さんが大きな顔をして、彦坂尚嘉の芸術分析は科学的反証性がないという批判をします。

反証はできるのですが、時間がかかります。まず芸術の質を問題にした研究をしたヤーコブローゼンバーグの段階をマスターしてもらう必要があります。そういう手間をかけられるのかどうか。彦坂尚嘉が高橋堅さんに、そういう絵画の善し悪しの見方を成立させている構造を教育するとして、その教育にかかる経費をどうするのか?

ヤーコブ・ローゼンバーグの芸術観と、たとえばイギリスのケネス・クラークの芸術観も、食い違うものです。両者とも広義の意味での学問をしているのですが、食い違うのです。例えばケネス・クラークは、モネの大聖堂の絵画を、シュークリームのお化けだと『風景画論』の中で書いています。印象派がイデオロギー化して硬直しているというような趣旨の批判です。これも一理はありますが、ニューヨーク近代美術館の評価は、このケネスクラークとは違います。最晩年のモネの睡蓮の3枚パネルの大絵画を、ポロックと並べて展示しているのです。つまり、ケネス・クラークがシュークリームのお化けと批判したようなモネの絵画に、ポロックにつながるような過激な絵画の流れを見ているのです。つまりケネスクラークには、このように過激化して流れたモダニズムペインティングの本流は見えなかったのです。


つまり、学問はいろいろな考えがあって、このパラダイム同士の間には、共約不可能性があるということなのです。

重要なのは、この共約不可能性がたくさんあるというアナーキーな状態こそが、人間の多様性であって、学問もこの共役不可能性の多様な思考の展開の中で進展して行くというのが、ファイヤアーベントンの考えです。


芸術の場合にも、同様な事は言えます。パリのルーブル美術館やロンドンのナショナルギャラリーに行けば、そこにある膨大な美術作品の数に圧倒されます。そこにあるのは名作だけではなくて、駄作や凡庸な作品もたくさんあるのです。何を名作と言い、そして何をくだらない作品というのかは、実はむずかしくて、少なくとも巨大な美術館というのは、玉石混合で、作品を集め、保存しているのです。ここに人類の芸術の多様性があるのです。

ここに見られる共約不可能性こそが、異なる知覚や芸術観を発達させ、芸術の歴史を進展させるのです。

つまり科学のパラダイムだけではなくて、芸術のパラダイム、そして各自、各自の趣味の根底に存在する共約不可能性こそが、芸術の歴史を進展させるものなのです。

それに対して、芸術を一つの価値に閉じ込めようとした社会主義リアリズムやプロレタリアアート、そしてナチスの公認芸術のような全体主義の芸術政策は、こうした共約不可能性を無視し、表現の自由を抑圧するものと言えます。

彦坂尚嘉の『アートの格付け』や芸術分析を、多くの人は抑圧として受け取って、芸術の多様性や、表現の自由を抑圧するものと受け取っているのかもしれません。しかしそれは現実的には違うのです。彦坂尚嘉は思想的にはファイヤアーベントンのアナーキズムに共感するのです。

つまり彦坂尚嘉が『アートの格付け』や芸術分析で追求しているのは、表現の自由であり、芸術の多様性なのです。

このところ彦坂尚嘉とぶつかっているsm氏や、it氏に対して、彦坂尚嘉は、その表現に対して敬意を払ってきたのであって、抑圧してきたのではありません。彦坂尚嘉の思考や発言をキチガイ呼ばわりして、表現の自由や、言論の自由を抑圧してきたのは、むしろsm氏や、it氏なのです。

日本社会というのは、戦争中のファシズムの形態を持つ社会であって、ナチスのファシズムや、ソヴィエとの共産主義と同様の全体主義的な伝統をもっているのです。ですから日本社会の根底には、共約不可能性を否定して、誰にでも分かる同一な意見や芸術や、思想にしようとする均質化を求めるファシズム的な傾向が強くあるのです。

彦坂尚嘉の『アートの格付け』や芸術分析の根底にある思想は、ファシズムではなくて、表現や芸術の自由をアナーキーに追求するものなのです。

表現の自由や、言論の自由の根底には、共約不可能性の認識があるのです。

彦坂尚嘉は、議論や対話を避けるつもりはありません。
しかし同時に共約不可能性が存在している事も、認識しているのです。

it氏の場合、デュシャンの作品のたくさんあるフィラデルフィア美術館を見ていないで、デシャンをめぐる議論をフィラデルフィアに一年住んでデシャンを見てきた彦坂尚嘉にしかけてくるのは、かなり私の側には迷惑な話なのです。しかもご本人は、デュシャンに勝ったと思っていた訳で、「デュシャンに勝った」と思い込む、そういう馬鹿まるだしの思いを持つ身の程知らずの作家と、議論する事のむずかしさがあります。it氏の場合、根底に万能感があって、自分を神だと思っているように、私には見えます。自分を神だと思う万能感と、自分を劣等生だと思う気持ちが同時にあるように見えます。

ラカンを読んでいない方と議論をする事もしたいとは思いますが、そこには困難があります。ラカンの著作やセミナールなどの記録集は、きわめて難解なのです。ジジェクを読んでおられる方と、ジジェクの話をするのは良いですが、これもラカンを読まずにラカンの話をするのはむずかしいという事です。

とにかく、人間は多様であり、人間の思考や創造性は、分かり合うのは不可能な所があるという共約不可能性を認めて、おつきあいいただければと思います。

自分に理解出来ないから彦坂尚嘉のいっていることはキチガイだとか、インチキだとか言う方とおつきあいするという事は、社交としはむずかしいのです。

あくまでも人間同士のおつきあいというのは、社会的なものなのです。この社会というものも、原始的な《群れ》や、前近代的封建的な《村》の大きさではなくて、少なくとも近代国家以上の水準での大きさの社会性の中での社交であるということなのです。

そこには基本的な意味での個人と個人の距離が存在しているのです。同時に近代社会には、批評や言論の自由が存在しているのです。それに対して群れ》や《村》には言論の自由はないのです。批評や言論の自由を嫌うsm氏の場合、生きている空間が群れ》であるように彦坂尚嘉には見えます。現代美術の作家には《群れ》の原始社会性に生きる人が多いのです。現代の情報化社会では、かつての群れや村のような形での人間関係は形成することはできないのです。

大文字の他者というのも、実は変化していて、群れ》や《村》ではなくて、今日のグローバル化した社会性というのは、別であるのです。この変化を書いたのが、ネグり・ハートの『帝国』という本でありました。人間と人間の関係は変化してきているのです。

どちらにしろ、人と人の関係は、社会的な関係ですので、そこには礼儀が必要です。相手に対する基本的な敬意も必要なのです。そしてミスをしたら率直に謝罪するということも必要なのです。普通の今日的な社会的な関係性を持っていただければと思います。


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ラカンについての反論(校正1) [ラカン用語をめぐって]

以下は、スラッシュ・メタル論の中に書いたものの抜粋を元にしています。


・・・ここで彦坂尚嘉が《現実界》というと、また批判が起きるかもしれません。しかし私を批判しているのは、ラカンの専門家ではなくて、ラカンの本も読んでいない人なのです。

私がラカンを読み始めたきっかけは、日本ラカン協会の初代理事長の佐々木孝次さんです。佐々木氏がラカンの精神分析をフランスで受けて、パリで自己分析の過程を描いた『心の探究』を出版して、それを読んだことから始まります。

佐々木 孝次(ささき たかつぐ)氏は、1938年生まれ。精神分析学者、専修大学名誉教授。。1961年早稲田大学仏文科卒、1963年同大学院修士課程修了、パリに留学し、フロイト、ジャック・ラカンの精神分析と出会い、自分自身を分析し、精神分析を専門とした人物です。

このパリ時代の自己分析の過程を描いた『心の探究』は伊丹十三に絶賛されて、『快の打ち出の小槌 日本人の精神分析講義』( 朝日出版社 1980年) という本を伊丹十三との対談として出版して、一般にも知られるようになります。

実はその前に佐々木氏は『母親・父親・掟 ・・・精神分析による理解』をせりか書房から1979年に出版しています。私自身は父親のいない私生児として生まれて苦しんでいたので、この『母親・父親・掟 ・・・精神分析による理解』という本をまず読んで大きな影響を受けます。

次いで2冊本のラカンの主著『エクリ』を買って読んでいます。つまり私は1979年からラカン関係の本を読んで32年を経ているのです。

その32年の過程では、現在の2代目の日本ラカン協会の理事長の若森 栄樹氏の著作『精神分析の空間』弘文堂 1988からも大きな影響を受けています。

彦坂尚嘉自身は日本ラカン協会の幹事をしていて、先日も大会開催のお手伝いをしています。日本ラカン協会しのものは、文献学的な傾向が強くて、フランス語でラカンを読む事が基本的なものではないかと私の印象ではあります。

理事長の若森 栄樹氏とお話もしています。
事務局は、東京大学の助教授の原和之准教授です。今回もお話をしています。原氏はラカンの文献研究者としてはすぐれている方です。あるいは福田 肇(フランス・レンヌ第一大学)さんと伊藤啓輔(専修大学)さんのラカンをフランス語で読む読書会にも出席しています。ここには哲学者の中島義道氏も協力なさっていらっしゃって、お話もしています。

自分でもラカンの読書会を主催して40回になっています。

こういう努力をしている私を、ラカンを1冊も買ってもいないし、読んでもいない人が、32年も読んでいる彦坂尚嘉のラカン用語の使い方はとんでもないものだと批判するのです。

ラカンを読んでいない人が、なぜに彦坂尚嘉を批判するのか?それはまずラカンの思想の過激さを読んでいない事によります。ラカンの前のフロイトにしても、過激な思想家で、当時の多くの人は評価していなかったのです。

その上に、私が、ラカンの思想と用語を、《言語判定法》を使って現実の測定に展開しているからです。ラカンそのものは臨床医ではありますが、科学者である以上に哲学者であって、思想的な展開力が強くて、必ずしも事実を測定しているとは言えない所があるからです。

一方の彦坂尚嘉は、《言語判定法》で現実を測定している観察者なのです。ラカンを読んだ上で《現実界》という言葉を、現実のある特定のものに投げかけてみると、ラカンの定義とは別のものの反応が起きるのです。ラカンの用法とは違うという事を、何度も書いて、私は私の使っている芸術分析の意味を提示しています。そういうことは、哲学や学問では、普通に行われている事なのです。彦坂尚嘉が《言語判定法》で測定しているのは、そうしたやり方です。

さて、そういう訳で、《言語判定法》で、《現実界》というラカンの用語を音楽に投げかけて、その反応を取ると,スレイヤーの音楽は《現実界》の音楽なのです。まずは、聞いていただきたいと思います。聞いてもらうと、《現実界》であるというは納得いく面があるはずなのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

しかも、私を批判する人は、私に世話になり、教育されたにもかかわらず、恩を仇で返してくる人物なのです。大学院の授業も、もぐりで1年間受講しています。フォトショップの使い方も教えています。色盲であるので、色盲写真を提案し、実際に試みているのです。写真の作品選択も、私が膨大な量から全てをやっています。それを何も直に教えられていないと、私のブログのコメント欄でぬけぬけと書くのですから、凄い人物です。2ちゃんねるの批判にいそしむ者たちと同様の人で、私をなめているのです。大衆的な思い込みで批判してくるのです。

こういう人の目先の快楽の溺れる知能の低さと無責任さ、品性の下劣さにあきれてしまいます。

私自身は、幼い時から結核で苦しんできたし、弟は重度の脳性麻痺という事もあって、下層の人を差別しない平等主義で来たのですが、さすがに最近はそれが間違いである事を認めざるを得なくなりました。私の善意や親切を裏切り、2ちゃんねるなど攻撃してくる卑劣な人々の中心は、すべて世話をした人々で、それは下層で、頭も悪く,人格も下劣で、教養の無い人たちなのです。

わたしの年齢も64歳なので、時間が無いので、こういう人たちは差別する事にします。思想的には差別はしたくありませんが、現実問題としては、それ以外に方法がありません。こういう人物の名前も出しません。今後一切相手にないことにします。

追伸:沖縄旅行から削除したので、本人が弁明に来ました。私の認識は、個人の問題ではなくて、そういう恩を仇で返す次元が存在するという事です。言い換えると、そういう下層の人を世話をするときには注意しなければならないという事です。つまりニーチェのいう贈与の徳というのは、現実にはむずかしいという事です。スマイルズの『自助論』の方が現実には正しいということになりと思います。

自分で自分を押さえることのできない人間は、

どんなことであるにせよ、

たいしたことは出来ない。

 

外部からの援助は人間を弱くする。

自分で自分を助けようとする精神こそ、

その人間をいつまでも励まし元気づける。


我々は、失敗することによって、

どうやればうまく出来るかを発見する。

間違いを犯さない者は、

このことを発見することが出来ない。


もし好機が到来しなかったならば、

みずから好機を作り出せ。

 

情報出典:http://www.earth-words.net/human/samuel-smiles.html

 


《現実界》について(加筆3) [ラカン用語をめぐって]

加藤豪さんから、次のようなコメントをいただきました。

加藤豪様
コメントありがとうございます。
いま、きちんとお答えする余裕が無いのですが、
一応別のブログに、出してみます。

私自身が、正月にブログに熱中しすぎていて、他の雑務ができていなくて、時間の余裕がありません。つまりラカン用語でも、《現実界》について解説したり語ったりするのが一番難しいのです。

率直に申し上げて、ジジェクと議論をすることは私には可能だと思うのですが、加藤豪さんとこの議論をするのは、かなりむずかしいのです。それは《象徴界》が、加藤豪さんの精神の中に生まれていないように、私から見ると見えるからです。

彦坂尚嘉理論ですと、《象徴界》を否定することで登場するのが《現実界》なのです。ですので、《象徴界》を確立していない方と議論しても、結局はすべては《想像界》に還元されてしまっていて、縮小均衡にまとめられて行くだけなのです。失礼な言い方で、申し訳ありません。お許しください。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

以上のように書いたのですが、申し訳ないので、少し、時間の合間に書いてみます。

彦坂尚嘉様

最近の記事で多く、いわゆる「現実」のパラレルワールドとしての〈現実界〉についての言及がされていて、ここのところ興味深く読んでいました。世界をフラット(想像的に)に見るのではなく、いろんな次元が錯綜する多次元的なものとして芸術家は見るべきだというご意見を理解し共感しつつも、一方、ラカンの用語の〈現実界〉に相当するものが、美術の中で、これまでどのように扱われ、また語られてきたかを批判的に検証してみました。その結果は、私の答えは、彦坂さんのそれとは逆になります。いわゆるジジェクが言う所の「ポストモダンのドクサ」(S・ジジェク『戦争とテロル----〈現実界〉の砂漠へようこそ』青土社、P31)。象徴的な虚構として構築された現実を越えたもの、または外部としての「本当の現実」を直視せよ!と、むしろこれまで多くの人が語ってきたのではなかったのでしょうか。

「本当の現実」を直視せよ!というのは、まったく違います。この言葉が指し示すのは《象徴界》です。このようにとらえることが、問題なのです。

彦坂尚嘉の私見では、《現実界》を指し示すのは、数学的な数式とか、数字です。例えば色の問題で言えば、マンセル色票で、【5R4/14】と指定することです。これはいわゆる真紅ですが、真紅という言葉では、科学的には色は指し示せないという事です。

書き言葉=文字で語っても《現実界》を指し示せない訳ではありませんが、基本は、禅宗が主張したように、それも日本の禅宗ではなくて中国のそれの本来のものである「不立文字」が正しいのです。

しかし絶対即相対であって、「不立文字」を正しいとして一切の思慮分別を断絶してただ黙々と座禅を組むとする黙照禅に対しては、「黙照邪禅」という批判が投げかけられます。

禅宗の「考案」の場合は、言葉が使われますが、それは言葉を使って言葉を否定したものとなっています。ここでも重要なのは否定であるという事です。

つまり実は数字や数式が重要なのではなくて、書き文字の否定が重要なのです。文字を否定したところに出現するものなのですが、物理化学では数式を用います。アインシュタインの一般相対性理論の基本方程式は

G_{\mu\nu} + \Lambda g_{\mu\nu} = \kappa T_{\mu\nu}\,

です。ラカンがやたらに同様の方程式や図式を用いる意図も、文字を否定した認識を伝えようとするカラです。彦坂尚嘉の私見では、禅宗に見られるように、重要なのは文字による認識の否定です。

美術作品で見ると、彦坂尚嘉の《現実判定法》をつかった私見では、黒い明確な線で描かれた輪郭線で表されるイラストレーションが絵画の《現実界》を指し示します。

建築で言えば、建築の図面の線と数字でえがかれているものです。
一軒の建築を見るときに、図面の線で見ている見方が《現実界》の見方であると彦坂尚嘉は考えています。

音楽で言えば、音楽を聴いて、譜面を採取して記譜していくような聴き方です。

この場合でも、基本は《想像界》にあります。《想像界》とは何か? これが分からないと理解を間違えます。《想像界》についての早いに認識は、『荘子』に見られます。デカルトの『方法序説』が、普通の意味での入門書と言えます。そしてこのデカルトの認識を追いかけて厳密化したのがフッサールの現象学です。私自身はフッサールを読んできた人間です。

ともあれ、認識そのものの問題は、実はかなりむずかしくて、修行がいるのです。

その衝動は、現代アートの歴史の中で、果てはチンポムにまで至る大きな流れとして中心的に形成されてきたというのが私の考えです。

チンポムを現実界であるという意味では、むしろ朝青龍とか沢尻エリカの方が《現実界》なのです。そういう議論はできない訳ではないですが、美術で語るのなら、デュシャンの『泉』です。これについて語るのなら、つきあえないではないですが、チンポムというような風化形態で議論する事に、私は意味を見いだせないのです。こういうことは止めた方が良いのです。物事は、原点で語るべきであって、枝葉の風化したものを見て語るべきではないのです。

例えば日本刀ですが、これも平安末期から室町末期くらいまでの名刀で語るのには意味がありますが、それ以降のいわゆる新刀といわれる日本刀で議論しても意味は無いのです。もちろん議論にはいろいろなレベルや形、主題がありますから、一概には言えません。

問題はチンポムまでに至る大きな流れではないのです。ほぼ1969年頃で芸術に於ける創造性としては終わっています。

そのような外部を見る目(または外部からの目)を持つという芸術の側からの特権的主張は、9.11テロを芸術作品として見るシュトックハウゼンの発言により、ジジェクの表現を借りれば、「二○世紀アートにおける〈現実界〉(へ)の情熱のクライマックス」に達します。

この辺の議論も、しても良いですが、時間がかかります。浅く認識しても、犬の糞(ジョージウオーターズの『ピンクフラミンゴ』)のような話になります。美術的には頂点はセラの高温で溶かした鉛を投げた作品であると思います。つまり1969年頃の話題であります。

私もきちんと書かなかったので申し訳ないですが、このブログで私が議論しているメインは、《現実界》を否定して出現する《サントーム》の問題なのです。『ハートロッカー』という映画そのものについても、実はサントーム》として議論したかったのですが、それが手前の《現実界》で止まってしまって、それが加藤豪さんの反応を呼んでしまいました。《現実界》を否定する《サントーム》について議論したいですね。女性監督ということを含めて、良い大衆映画であったと思います。

すみません。時間切れです。また書きます。


しかし、私の考えでは、〈現実界〉とは芸術家が(または芸術の名のもとに)特権的に語るべきものでは元々なくて、むしろそのような特権を主張しそれにすがりつく限りにおいて、芸術は既に根拠を失っていると言えます。
〈現実界〉は、普段のわれわれの日常生活において、ある意味誰にでも見えているものでもあり、それは直視しがたいテロの凄惨な現場や暴力ポルノといった類いに限らず、たとえば今日学校に行きたくない、会社を休みたいと思い、魂がさまよっているような空間時間の体験、そういうところにも、現実界の砂漠はわれわれの眼前に光景として日々垣間見えている筈なのだと思います。そのような時間空間は、誰しもが知っているのであり、芸術家が上から教えるものではない。

そして、さらに重要なことだと思うので上記ジジェクから引用します。

だが精神分析が与えるここでの教訓は、まさにその反対である。精神分析は、現実を、虚構と勘違いしてはならない、というのだ。私たちは、私たちが虚構として経験することのなかに、私たちがそれを虚構化することにおいてのみ維持することができる〈現実界〉の堅い核芯を感得できるようでなければならない。(同書、P31)

つまり、たとえばある女性が、恋愛関係にある私に向かって、あからさまな自分のファンタジーを展いて見せてくるといった場面で、「そんなファンタジーはもうたくさんだ。つきあいきれないないよ馬鹿馬鹿しい。本当のリアルを直視せよ。」などと、もし思わずなじってしまったとしたら、当然の結果として、その恋愛関係は破壊される。
しかし、それは一体何故なのでしょうか。上記のジジェクを参照すれば、彼女が表すファンタジーという虚構を、単に軽いものとして扱ってしまえば、彼女がその虚構を大切にすることによってのみ維持される、本当にリアルな核芯までをも、私は台無しにしてしまう可能性があるということではないでしょうか。そのリアルは、彼女自身にとっても直視できないものであることと平行して、保持されるもの、確かに存在するものであるのだと私は考えます。これは、もっと一般的にも、言えることだと思います。

by 加藤豪 (2011-01-11 06:57)  






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