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アートの格付け ブログトップ

400次元と「今泉旋風」 [アートの格付け]

『アートの格付け』や「芸術分析」を追いかけてきたのは、それは自分自身の作品のコントロールのためでありました。制作というのは非常にむずかしいものであって、制作を重ねるとどうしてもクオリティが落ちてきてしまうからです。歳をとるにしたがって、作品のクオリティを上げて行ける作家は、ごく少数しかいませんでした。だからこそ晩年まで自分のアートの格を上げ続けて行ける少数の偉大なアーティストは貴重でり、目標たりえたのです。

 

ピカソですらが、キュビズムの《超次元 名品領域》から、一番抽象化した分析的キュビズムの次期に《第16次元 崩壊領域》に落ち、さらに総合的キュビズムでは《第6次元 自然領域》になってしまう。第2次世界大戦後は《第8次元 信仰領域》に転落して、低い絵画に終始して死んでしまったのです。

 

こうした転落の傾向は、実は現代美術につきまとうところがあって、デビュッフェでも晩年は低下し、ロスコーに至っては作品は退化して自殺して行きます。こういう例は実は多くて、20世紀美術の大きな問題なのです。何故にそのような事が起きるのか? それは急速に時代が変化し、時代の次元が増大して行くために、その変化にアーティストが対応できず、相対的に古くなって行ってしまうからです。

 

第2次世界大戦後の、いわゆる戦後美術の中で,この大きな変貌が起きたのは第2次世界大戦後で、この最初の指摘が、いわゆる「今泉旋風」です。これについては私も書いてはいるのですが、光田由里さんのより詳細な研究があって、これについて前田恭二氏が次のようにネットで紹介しているので、引用しておきます。

 

1952年渡欧した今泉篤男は国際舞台で見る日本人画家の絵の弱さに打ちのめされ、それを同誌などで率直に吐露した。具体的には多くの洋画家・版画家が出品したサロン・ド・メエ、日本が初参加したベネチア・ビエンナーレであり、当の出品作家からの反響も同誌に掲載された。この議論は今泉と出品作家側の重鎮である梅原龍三郎の対談でハイライトを迎える。今泉は対談の最後で、日本の美術の近代化に向けて、提言をしているという。本稿から孫引きすると、以下の通り。<一つは、現在の日本の美術団体を一応解消するか、再編成するかどっちかにしてもらう。もう一つは、現在の日展をやめてしまうか、文部省の手から名実ともに切り離す。そして、国家は、クワドリエンナーレでもビエンナーレでもいいけれども、相当の経費を投じて各国の画家の作品を招待して、日本でちゃんとした国際展をやる。この二つのことに切りかえて行かなければ、日本の本当の近代絵画は築かれにくいと思う。それで私はまず先生にその気になっていただきたいと思うのです>。という提案の通りに、まったく現実は進行しなかったわけで、その延長線上に今日の国立新美術館なども位置しているわけである。忘れられてはいけないことに、きちんと目を向けている筆者に敬意を表したい。

情報出典:http://www.pg-web.net/off_the_gallery/papery/2007/Feb_2007.html

 

私自身は、この今泉旋風についても1971年段階で再評価していて、その後『戦後美術批評の確立』(『彦坂尚嘉のエクリチュール』所収)に書いていますが、同じ思いは日本の現代美術や現代アートの《第6次元 自然領域》主義として批判し続けてきたのです。

 

つまり日本の現代美術/現代アートの多くが《第6次元 自然領域》か《第8次元 信仰領域》に停滞していることを良しとする低いものしかないために、おもしろくないのです。

 

しかも《第6次元 自然領域》や《第8次元 信仰領域》の作家の作品は、歳を経ると次第に古くなって生気に欠けて、劣化して行くのです。こういう事態から、どのようにして彦坂尚嘉は脱出できるのか?

 

『アートの格付け』や「芸術分析」を探求する彦坂尚嘉の姿勢を、多くのアーティストたちは嫌らって、去ったり、離反していったのです。同様の事は画廊との関係にも起きました。最近になってようやく少数ですが、私の主張のおもしろさを評価してくれる若いアーティストに出会うようになってきました。それが気体分子200というグループになったのです。メンバーは栃原比比奈、中川晋介、そして彦坂尚嘉の3人と、田嶋奈保子です。この「気体分子200」というグループ名は、さらに「KB400」に変貌してきています。将来的には「KB800」になることも視野にいれているのです。

 

というわけで、今回の彦坂尚嘉のドローイングは、『アートの格付け』が400までになった作品です。400次元とは何か? については、説明に時間がかかるので、別の機会にゆずりますが、内容的にはおもしろくなっていると自分では思います。どうせ日本の中では無視されるでしょうが、私も余命が無いので、少しでも制作に励んで、自分の満足のいく作品を晩年に一男多く制作できればと思います。



《超1流》の起源/石器 [アートの格付け]

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彦坂尚嘉の『アートの格付け』において、自然領域は《第6次元 》であった。では、どこから《超1流》という《超次元 》の領域は生まれたのであろうか。


人類の歴史は、道具の発明の歴史であるのです。人類というのは、道具を発明する事によって進化してきたのです。

このことを理解してくれないとまずいのです。つまり、まず、生物の進化の歴史ですが、それは身体変形によって、生物は進化してきているのです。象が鼻を長くし、キリンが首を長くしてくるように、生物は身体を変形して進化してきたのです。

ところが人類に至ると、大脳皮質まで大きくすると、それ以上の身体変形をできなくなったのです。そうすると人類は、道具を発明して、道具を進化させる事で、進化するようになったのです。ですから、道具というのは、人間の身体の一部を外部に出して道具として発達させるようになったのです。その最初の道具が石器なのです。




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石器を『アートの格付け』をしてみると、どのようになるのでしょうか?

『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[石器
]の芸術分析



《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で
《超次元》
の《真性の芸術》

《現実界》の眼で
《超次元》
の《真性の芸術》



《現実界》の表現。
絶対零度の表現。



《シリアス・アート》
《ローアート》
シニフィアンの表現
理性脳の表現

《原始立体》【B級美術】

《原芸術》《芸術》等々
の概念梯子が無い。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。

《原-道具》である。

貴族の芸術でも、大衆美術でも無い。

作品空間の意識の大きさが《孤児》である。
鑑賞構造が無い。
情報量が0である。
クリエイティヴである。

さて、重要なことは、この石器段階で、《超次元》が出現している事であります。ここには、しかし《第1次元 社会的理性領域》はありません。つまり《第1次元 社会的理性領域》よりも前に《超次元》が、出現しているのです。






加藤豪さんの作品 [アートの格付け]


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加藤豪 Une Statue I.1994.white marble 58×25×152
Copyright (c) Go Kato All right reserved.



コメント欄に書いてきてくださっている加藤豪さんの作品を見ておきたいと思います。大切なことは作家同士なので、作品を見ていくことが重要なのです。少なくともまじめに考えるとそうなります。

しかし「加藤豪」で検索をかけると、同姓同名の別の作家が出てきます。

そういうこともあって、このブログの読者諸兄に加藤豪さんの作品を見せたいのですが、最初にお断りしておくと、私は加藤豪さんの作品の実物は見ていません。

画像だけで判断するしかありません。画像だけで判断できない事は、言うまでもなく言える事ではあります。しかし画像しか見えない場合、画像だけでも、その条件で判断する事は情報化社会では大切だと考えています。

情報が判断材料では無い」とすることは、矛盾だからです。私たちは情報で判断し行動しているのですから。それには常に間違いをするリスクはあるのですが、情報による判断で動く意外には、人間の脳はなし得ないのですから。


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加藤豪 Une Statue I.1994.white marble 58×25×152
Copyright (c) Go Kato All right reserved.



判断と言いましたが、あくまでも私の主観にどのように見えているかという事であって、別の人が見れば別の判断があるのです。判断は人それぞれであって、近代個人主義以降の時代では、判断は個人の自由にゆだねる量が大きくなっているのです。

つまり、あくまでも彦坂尚嘉の責任による《現実判定法》での判断であって、それ以外のものではないのです。繰り返すと、彦坂尚嘉の主観による芸術分析であって、客観的な分析ではありません。そもそも芸術作品において客観的な分析はあるのか? ということになりますが、分析には3つあると彦坂尚嘉は考えています。

《イメージ判定法》による分析
《現実判定法》による分析=科学的判定法による分析
《現実判定法》による分析

イメージ判定法というのは、作品のイメージの類似性を使って、検証するものです。これは彦坂尚嘉の場合にも多用しています。ここでは実物を直接に見たりはできないので、《イメージ判定法》と、彦坂の《言語判定法》の組み合わせによる分析です。

ですので、判定としても完全なものではなくて、常にそうですが、判定や判断、分析には限界があり、間違う危険性はあります。ですから、間違いに対する責任を明示して、「彦坂尚嘉責任による」と書いてあるのです。

つまり私の主観の判断や分析ですので、それは実は彦坂尚嘉の眼や頭脳がどのように考えているかであって、ここで検討する加藤豪さんの作品を客観的に規定しているものではありません。

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加藤豪 Une Statue II.1997.white marble  84×114×68
画像出典:http://www.go-kato.com/
Copyright (c) Go Kato All right reserved.



こういう行為は、法的には、「表現の自由」に依拠した活動です。

「表現の自由」というのは、「自由権」に属するもので、精神的自由権のひとつです。

検閲を受けることなく自身の思想良心を表明する自由」を指します。

これは国際人権法で保護され世界人権宣言第19条、国際人権B規約にも規定されているものです。日本でも、国民の権利及び義務として日本国憲法第21条第1項において「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定されています。

つまり「表現の自由」は、思想・良心の自由」と一体を成すものです。

“考える事だけは自由だが、それを意思表示・表現してはならない”ということでは、見ざる言わざる聞かざるという3猿状態を強いることであって、それでは自由を保障されているとは看做せないからです。

つまり、彦坂尚嘉が考えた事は、それを意思表示し、表現する事ができるという自由の保証が、法的には国際法・国内法にもあるのです。これらの法によって基本的には保護されているのです。こういう表現の自由が、民主主義の社会には重要であると考えられているのです。

表現の自由」の派生として、「言論の自由」「報道の自由」「創作の自由」「広告宣伝の自由」「学問研究の自由」などがあって、アーティストの制作もまた、この保護の中に入っています。

しかし、日本には、太平洋戦争の下の国家総動員態勢の時の大政翼賛会による言論統制の伝統と、敗戦後のマッカーサーによる言論検閲の伝統が、それ以後も現在にわたるまで続いているのは事実です。

日本では、社会的圧力のために自由に話すのをためらうことが観測されます。

個人が不人気な意見を発表するとき、その人は彼の共同体からの軽蔑に直面するか、または乱暴な反応を受けるのです。

このような弾圧は、この彦坂尚嘉のブログとそれに関連することでもたびたび見られる事です。このタイプの言論の抑圧を防ぐことは、政府からの抑圧を防ぐよりさらに難しいのです。言論の自由や、表現の自由を追求するリバタリアニズムを信条とする彦坂尚嘉は、犬死にする覚悟でこのブログを書いているのです。

作家の作品に対する批評行為に対する検閲と抑圧の問題が、白濱雅也さんよりなされたのは最近です。この問題では、作家といっても、その作家がとるにたらない作家であるから、つまり客観的に社会的な責任をもって芸術活動をしているのではなくて、実は芸術家のふりをしたアマチュアのアーティストであるという主張がありました。

つまりアマチュア・アーティストの活動は、私人の私的プライベイトであるのであって、それを批評する事は、名誉を毀損するものであるというような趣旨の主張であったと彦坂は理解しました。アマチュアが事実ならば一理あると考えます。たとえ作品集を出版していても、アマチュアであるということは、あり得るのです。

つまり、個人にたいする表現の自由は、濫用すると、名誉毀損罪・侮辱罪に抵触する恐れがあります。

つまり表現の自由の派生概念である批評の自由は、名誉毀損罪は重複しているものであるのは事実です。

たとえば、ある人物が浮気をしている場合、それが事実であっても、それを告発したビラを撒いた場合に、名誉毀損が成立可能性があります。その行為が、公共的な利益にかなう場合には、名誉毀損にはなりませんが、私的な個人の場合、そのプライベートな浮気の暴露は、公共の利益とはならないと判断されれば、名誉毀損が成立します。

しかし政治家や芸能人の場合には、そうした保護がなくなります。つまりその人物の社会的な責任性で、表現の自由や、批評の自由の範囲が変わるのです。プロのアーティストの場合には、批評行為は社会的公益性のある活動として成立するのですが、アマチュア・アーティストに対しては、批評の自由は、名誉毀損になって成立しないと考える考え方です。

白濱雅也さんの告発を受けて、彦坂尚嘉としては、彦坂が《群れ》と言う言葉で判断している小さな空間に生きている表現者に関しては、社会性が近代国家の大きさがないものと判断して、批評を差し止めるという決断をしました。それは日展のような社会性の強い団体の表現を含むものであって、こうしたアカデミズム=キッチュを成立させている作品表現は、作家1人1人の表現としては、非作家的なプライベイトな表現であるという判断です。つまり私的な趣味であり、楽しみの問題であるという事です。この判断の正当性に付いては疑問が無いのではないのですが、白濱雅也さんとの具体的なやり取りの中で、そのように、白濱雅也さんの意図とははるかに拡大した形で、彦坂尚嘉は受け取ったのです。


さて、ながながと前置きを書いたのは、加藤豪さんという作家の作品に対して、批評行為をしても良いのかどうかについて、客観的には良く分からないからです。いままでの経緯でいえば、彦坂尚嘉が批評行為をすれば、ふたたび加藤豪さんの感情を傷つけて、リアクションがたいへんになる可能性があります。ですから、それをさけることが賢明であると考えるのが普通ではあります。

しかしお互いに作家であり、加藤豪さんも本名を明示して、あれだけ大量の書き込みをしてくるのですから、ブログの社会性に対応する程度の社会性はあると判断出来ます。実際にプロフェッショナルな作家であるかどうかは私は判断出来ませんが、常識的な意味で趣味で美術をやっているアマチュアであるとも言えない規模と技術の作品なのです。

画像の使用に関しても同様の問題がありますが、作品を批評する自由があるとすれば、非営利的なこのグログでも使用は、無許可で可能と彦坂尚嘉は考えます。それはこのブログを読んで切る公衆の利益に合致すると考えるからです。批評の自由は、あくまでも社会の利益に貢献する事を目的にしています。つまり芸術というものの成立は、公的社会的なものであって、それを追求する批評活動は、表現の自由に属すると考えます。そして加藤豪さんの作品を芸術分析するために画像を使用する事は、可能であると考えます。これに関して著作権違反の訴訟がされれば、私は勝っても負けても、それを受けてたって、法廷で私の正当性を訴える覚悟です。

私の興味は、あくまでも加藤豪さんの作品分析にあります。そして地雷を2度踏む覚悟で、ちょうどブログに加藤豪さんの作品を取り上げようとした所,次のような個人メールをいただきました。


加藤さんの作品で、巨大なチューインガムの彫刻作品(素材は石膏かFRPかだと思います)というのがありまして、甘味を吸い取られ吐き捨てられた、くっきりと歯型の付いたガムの形態をしておるのですが、これが大変素晴らしいと思っています。このような作品も、彦坂様がおっしゃる「想像界だけの作品」という事になるのでしょうか?

加藤豪さんは、東京芸術大学で、会田誠さんと初期に活動をされた方です。会田さんと同様に多様な作品を作っておられますが、さて、そのチューイングガムの彫刻作品の前に、2つほど作品を見ておきたいのです。その一つは、さかぎしよし さんの作品に類似しています。

まず、さかぎしよしう さんの作品です。

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後の色の付いた3点が、加藤豪さんの作品です。

《イメージ判定法》的には、さかぎしよし さんと加藤豪さんの作品は、類似性を持ったものです。

《現実判定法》=科学的判定法で見ると、まず、サイズが違います。サイズがネットの写真には無くて、具体的には数字ではとれませんでしたが、非常に小さなもので、記憶で言えば、3㎝から4㎝の手の平に乗るものです。ジャンル的にはミニアチュールとか、アミュレットとか言うものです。そして材料的には、陶器です。

それに対して加藤豪さんのものは、もう少し大きいのです。と言っても、巨大な作品ではありません。10センチから30センチの作品です。

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さて、画像から見ると非常に似ている作品です。
どうして似ているのでしょうか?
偶然でしょうか、それとも影響関係でしょうか?

加藤豪さんの制作年よりも、遥か前から さかぎしよし さんは、渋谷松濤のGALERIE ANDO で、毎年個展発表をなさってきています。GALERIE ANDO が、20年以上前、まだ駒沢あたりに会った時から、私はさかぎしよし さんの作品は見てきていて、お話も何度もしています。


さかぎしよし さんの作品は、すでに美術界で評価されています。下記のものは、神奈川近代美術館でのポスターです。


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具体的な作品の制作年は2008年ですが、同じような作品を10年以上前から作り続けている作家なのです。つまり さかぎしよし さんが、加藤豪さんの作品を見て影響を受けたという風には、彼の作品を20年以上見て、つきあってきた私には考えにくいものがあります。しかし具体的に資料をつきあわせての判断ではないですから、間違いの可能性もあります。

このことは両者に言えるのです。もちろん、時間を割いて、詳細に資料を突き合わせると、科学的に判断がある程度できる事項でもあります。

 

だから、加藤豪さんが、さかぎしよし の作品を模倣したというような客観的な資料や論証されたものが現在あるのではないのです。ですから、これについて彦坂尚嘉は、何も決めつけるものを持ち合わせてはいません。ただ類似しているように見えるという、普通の意味での《イメージ判定法》での判断をするだけなのです。

 

あくまでも一般論ですが、《想像界》だけであるように見える人の場合、他人との関係がラカンの言う鏡像関係になるだけなので、影響を受けやすく、直接の模倣行動を頻繁に取る傾向が観察されます。ラカンの鏡像理論については、ネット検索で読めますので、分からない人は自分で探して読んでください。

 

さて、さかぎしよし 作品の芸術分析です。

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彦坂尚嘉責任による《現実判定法》での
さかぎしよしおう作品]の芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザインエンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザインエンターテイメント

《現実界》の表現。ただし《想像界》《象徴界》は無い。
液体=近代美術。ただしプラズマ/気体の/固体/絶対零度の様態は無い。

《気晴らしアート》である。
《シリアス・アート》では無い
《ローアート》である。《ハイアート》では無い
シニフィエ的な表現であるシニフィアンの表現では無い。
原始脳性の表現である。理性脳の作品ではない。

【B級陶器】である。原始立体である。【A
級陶器】性は無い。透視立体性は無い。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が無い。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原シンボル》《原-デザイン》の概念梯子が有る。

大衆用陶器である。ただし
貴族用の陶器性が無い。

作品空間の意識の大きさが《孤児》である。
鑑賞構造が無い。《デザイン》
《イラストレーション》《あシンボル》である
情報量が100である。
クリエイティヴでは無い。


【続きは下記をクリックして下さい】

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タグ:加藤豪

《第200次元》の少女漫画/水波 風南『今日、恋をはじめます』 [アートの格付け]

水波 風南(みなみ かなん)の『今日、恋をはじめます』の絵がすごい!

《超次元》から《第200次元》まであるのだ!

売れ行きもすごくて、累計500万部を突破している。

私は、レンタル漫画屋さんで、ながめていて、発見したので、
これほど売れているとは知りませんでした。
水波 風南は、この作品から絵が変わっていて、本人もその苦労を、第1巻で書いています。

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『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[水波 風南『今日、恋をはじめます』]の芸術分析


《想像界》の眼で《超次元〜第200次元》で、退化性のある《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第200次元》
で、退化性のある
《真性の芸術》

《現実界》の眼で《超次元〜第200次元》
で、退化性のある
《真性の芸術》



《現実界》と《サントーム》の2界をもつ表現。

プラズマと気体の2様態をもつ表現。



《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。
理性脳と原始脳の同時表示


《透視画面》 オプティカル・イリュージョン【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》
《世間体のアート》
《形骸》《炎上》《崩壊》
の全
概念梯子が有る

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が有る。

大衆美術性と
貴族の芸術の
同時表示。

作品空間の意識の大きさが《グローバル》である。
《愛玩》《対話》という鑑賞構造2つが有る。しかし
《驚愕》《信仰》《瞑想》は無い。

情報量が100である。
クリエイティヴである。

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麻生三郎の最晩年/第200次元への到達(校正1) [アートの格付け]


麻生三郎の最晩年

  ・・・第200次元への到達

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麻生三郎  人(立体デッサン) ブロンズ 165×53×68㎝  1994

『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[麻生三郎 人(立体デッサン)]の芸術分析


《想像界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現。


《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。
理性脳と原始脳の同時表示


《透視立体》 【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》の概念梯子が有るが、しかし
《世間体のアート》
《形骸》《炎上》《崩壊》
の梯子は無い

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。

貴族の芸術であるが、大衆美術性の同時表示は無い。

作品空間の意識の大きさが《宇宙》である。
《愛玩》《対話》《驚愕》《信仰》《瞑想》という鑑賞構造5つが有る。
情報量が100である。
クリエイティヴである。




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麻生三郎  ハレテイル 油彩 キャンバス 130.3×194.0(120号F)1994年



200次元が出現している作品としては、
麻生三郎の1990年代に描かれた最晩年のペインティングがあります。

先日の国立近代美術館での麻生三郎展で見つけたものです。

この作品をすぐれているものとして評価出来る人は少ないだろうと思います。実際に私は建築系美術ラジオの収録を東京国立近代美術館で行ったときに、学芸員の大谷省吾さんの出席をいただいたのと、数名の作家や、フォトモで有名な写真家の糸崎公朗さんにも参加していただいて、この麻生三郎の作品についての感想をラジオに向かって話していただきました。

この中で3人は、はっきりと、この作品が分からなかったと言っていました。

この作品と後2点の1990年代の麻生三郎の作品を高く評価したのは彦坂尚嘉、栃原比比奈、そして学芸員の
大谷省吾さんだったのです。

多くの人は見慣れたもの、知っているものを見て、「分かった」といいます。そして知っているもの、既知のものが好きであるのです。その意味で、多くの人は極めて保守的であると言えます。オーストラリアの原住民アボリジニは、5万年、ほとんど変わらない生活をしてきたと言われますが、その意味で
アボリジニは保守的であったのです
全部で約800種類の種族が、ばらばらに独立して共存し、種族によって異なった言葉を話していたのです。老子が理想とした「
小国寡民
」の自然採取の放浪世界版であったのです。
宗教には自然崇拝の呪術です。こうした自然崇拝の呪術性は人間の保守性の基底として、実は現在の日本にも強力な勢力として存在するのです。これらの日本人は《第6次元 自然領域》だけを重視し、ここだけを見つめている保守性を示しています。それは5万年もほとんど変化の無い
アボリジニ的な
退屈で、平和で、安逸な世界なのです。5万年も繰り返される『男はつらいよ』シリーズとか、水戸黄門シリーズ、大岡越前の上シリーズと言うのも、恐ろしいものですが、しかし日本人の基底にはこうした自然採取の原始的なものの不変性が根強く続いているのです。ここでは変化は嫌われ、進歩もまた嫌悪されるのです。


こういう保守性は、ある意味では普遍的ではありますが、人類の文明史の推進力は、実は、未知への挑戦によって切り開かれてきたのです。

私は、自分の知らない未知なものを評価します。私は
アボリジニ的な不変性が退屈に感じます。
その意味で彦坂尚嘉は、いわゆる右翼や保守と言われる人とは異質であると言えます。野蛮な不変性は嫌いですが、しかし文明の伝統や文化遺産、そして文明の古典を大切に考えて『皇居美術館』の建設を主張するのが彦坂尚嘉ですので、いわゆる前衛主義や革新とも異質なのです。とは言っても、彦坂尚嘉は、美術史的には最後のモダニズムの前衛であり、同時に一番早いポスト・モダンであったのです。その接点に立っているのが私なのです。それゆえにこそ、誰にも理解されないのかもしれません。

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『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[麻生三郎  ハレテイル]の芸術分析


《想像界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現。


《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。
理性脳と原始脳の同時表示


《透視立体》 【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》の概念梯子が有るが、しかし
《世間体のアート》
《形骸》《炎上》《崩壊》
の梯子は無い

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。

貴族の芸術であるが、大衆美術性の同時表示は無い。

作品空間の意識の大きさが《宇宙》である。
《愛玩》《対話》《驚愕》《信仰》《瞑想》という鑑賞構造5つが有る。
情報量が100である。
クリエイティヴである。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


人間は、自然として生まれます。
赤ちゃんは自然存在であって、それは彦坂尚嘉の『アートの格付け』では《第6次元 自然領域》の存在なのです。

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赤ん坊は人間として《第6次元 自然領域》


つまり《第6次元 自然領域》というのが、この大宇宙を含めて存在していて、ここがすべての基準であるのです。

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宇宙も《第6次元 自然領域》


その意味で、美術もまた《第6次元 自然領域》だけの作品は、すべての基準であって、大切であると言えます。子供の絵や、精神障害者の絵は《第6次元 自然領域》なのです。

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子供の絵も《第6次元 自然領域》


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精神障害者の絵も《第6次元 自然領域》


《第6次元 自然領域》というのは、宇宙まで含めた大自然に同化してしまっているものですから、普通にあって、それはあまりに普遍的で一般的であるのです。つまり特殊ではないのです。

《第6次元 自然領域》の食べ物というのは、自然ですから、料理というものではありません。

しかし料理ではないというのは言い過ぎです。実際には《第6次元 自然領域》の料理を出している店はたくさんあるからです。

実例をだすと、彦坂尚嘉がディレクターをつとめるアートスタディーズという勉強会の2次会で使っている『うおや一丁』という大衆割烹がそうです。量があって安いので、2次会のパーティ向きなのです。

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『うおや一丁』は《第6次元 自然領域》

もう一つ上げると、「~安心素材、すべて手作りのナチュラルフード~ 天然創作料理と手打ほうとう 元祖へっ ころ谷 (創業30年)です。これは私のアトリエのすぐ側にあります。

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元祖へっ ころ谷は《第6次元 自然領域》

こういう自然を大切にした《第6次元 自然領域》の自然食品割烹というのは、あくまでも本来は農民の手作りの家庭料理であり、大衆向けのお店でしかありません。

伝統的な意味での日本の料理で、おいしいというのは《第1次元 社会的理性領域》のお料理です。《第1次元 社会的理性領域》こそが料理と言える基本なのです。

この《1流》の味が分からない人は、「味の分からない人」と言えます。つまり《第6次元 自然領域》の農民料理を楽しむ事は良いのですが、しかしそれしか味の分からない人を、グルメとは言わないし、そして味覚にすぐれている人とは言わないのです。

私の新しい友人の1人である糸崎公朗さんは、この《1流》の味のよくわかる人です。同じく栃原比比奈さんも、《1流》の味の分かる人で、私がまずい店に入ると、この2人は、辛辣な言葉で私をなじるのです。

なぜなら私は言語判定法で、その店の作りから味を言い当てられるからです。そしてもう一つの問題は、私はまずいものも食べるのです。なぜなら、私は認識者だからです。まずいものも食べないと、おいしいものが、何であるかが分かりません。美術も同様であって、圧倒的に傑出している名品を愛しますが、同時に凡庸でつまらない低い美術も見るし、そういうアーティストともつきあってきています。

先日、この3人で行った横浜の三渓園近くの中華料理屋さんは、私の《言語判定法》が的中して、《1流》のおいしい中華料理屋さんでした。二人は大満足でありました。
 
それが三渓園近くにある桃李というお店。

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桃李の店内にかかっていた書は、やはり《第1次元 社会的理性領域》の作品です。しかし《第1次元》だけしかありません。古典的な佳作としての《1流》の書は、《第1次元》から《第6次元 》までの重層性があるのですが、その重層性がこの書にはありません。その意味でこの書は、実はコマーシャリズムの書なのです。別の言い方をすれば、これは《書》ではなくて、《書の形骸》なのです。さらに付言すれば、《形骸》であることによって、人々を引きつけているのです。それは今日の現代アートの魅力でもあります。つまり現代アートは《アート》ではなくて、《アートの形骸》であるものが圧倒的な多数なのです。それはアートだけの現象ではなくて、1991年のソヴィエト崩壊後の世界が、《形骸》として存在している事の波及なのです。すべてが《形骸》となった世界を私たちは生きているのです。

閑話休題。
話を、桃李のお料理に戻します。


口コミを引用しておきます。

本牧で「ちょっと高めの中華」といえば、ここにきます。
もう10回以上行っています。

必ず頼むのが、ふかひれと
かに味噌スープとホワイトえび(?正式名称を忘れた)です。
スープかに味噌のこくがでて、濃厚でかなりおいしいです。
ホワイト
えびは、茹でたてのえびを剥いて食べるだけのシンプルな料理ですが、頭がそのまま食べれるぐらいやわらかくおいしい!

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桃李の《1流》のラーメン 

 先日、以前から気になってた本牧の中華料理店に行って来ました。店の前を通る度に高級外車

が数台止まっており゛ここは平行輸入業者か?゛と思うほど。

どうも敷居が高くてなかなか足が向きませんでしたが、メタボ中年探偵団四人組で勇気を出して行

って来ました。
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